増田俊也さんに訊く『七帝柔道記Ⅱ』インタビュー最終回「頭を使って理論的な研究を重ねた技術が活きる。それが寝技」
増田俊也さんに訊く『七帝柔道記Ⅱ』インタビュー最終回「頭を使って理論的な研究を重ねた技術が活きる。それが寝技」
Special Interview
© TOSHINARI MASUDA
柔術家ならご存知であろう、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の著者・増田俊也さんの最新小説『七帝柔道記Ⅱ立てる我が部ぞ力あり』(角川書店)が今春、待望の発売を迎えた。
寝技中心の高専柔道、その流れを汲んだ七帝柔道(ななていじゅうどう)に身を置く男達の物語で、増田さんが所属した北海道大学柔道部時代をモチーフにした自伝的青春小説である。
寝技といっても、タップをすれば技を解き、笑顔で握手をするような現代の競技柔術からは程遠い。七帝柔道は、15人の団体戦で勝敗は一本のみ。絞めは落ちるまで。関節技は折れるまでと想像を絶する極限の戦いだ。
柔術をやる者であれば、ぜひ読んでおきたい寝技格闘技のルーツともいえる本作品について、発売後の増田さんから話を訊くことができた。全5回に渡って掲載したインタビュー、その最終回を届けたい。
聞き手=伊藤健一
――七帝の練習は、試合を想定して技を試す練習とかはしないんですか?
増田:正直、息が上がって消耗してるからあまり余裕が無かった。学年の近い相手とやってるときは結果的に心肺機能とパワーを高める練習になってしまっていたかもしれない。
あとは寝技用の長時間続く精神力。もちろん「技研」の時間に様々な技術は研究したけど、試合で取ることができる技としては上下3つくらいずつパタ—ンを持つという感じ。
試合で使うのは4年間かけて練り上げたその得意パターンだけです。
――いわゆるハメ技ですね。
増田:毎日一緒に練習してるから、北大道場内ではその形にまでなかなかならない。
――亀とかも技術もありますか?
増田:あります。4年間亀をやってる人は鉄壁ですよ。
ただ、下級生のうちはね、結局後輩は時間いっぱい防御だけになって、結果的に絞め落とされることになるから、練習だと後輩とかはやりたがらないよね。落とされそうになって上向いたら抑え込まれて呼吸防がれたりして苦しい。
肩固めとか崩上四方とかだと落ちるしね。だから早く強くならないと大変なんです、体力を消耗して。
――でも、試合だと、分け役は亀が有効ですよね。
増田:試合になると、やはり分け役のほうが有利です。死ぬ気になって分けにくるから。
一方、抜き役は死ぬ気になっても抜けないものは抜けない。七帝の死ぬ気になった亀は本当に硬いから。抜き役は横三角で返すというのが、やはりきっちりいける形です。
当時は亀取りでは横三が流行っていた。でも何度引っ繰り返しても分け役が必死になってまた亀になっちゃう。もうそのあたり汗だくになって抜き役と分け役の必死の攻防ですよ。
――増田先生も、後ろ三角が得意と書いてありますよね。
増田:いや違う。後ろじゃなくて横三角です。ただ両膝を傷めてからは関節技でした。腕十字とか脇固め。
――腕がらみ(ア—ムロック)とかは、練習や試合で出ますか?
増田:ポピュラーですよ。練習ではみんなバンバンに使います。サイドについたり頭に廻って上体を両腿で挟んで。
でも七帝戦の本番では腕がらみに行くより抑え込みの1本を狙う方が確実だからあまり無いかな。関節技でも七帝戦本番では誰も参ったしない時代だったから。
『七帝柔道記Ⅱ』で最後の東北大との試合で、竜澤(昌宏)が腕がらみで相手の腕を折ったけど、あれは体力を消耗してて30秒抑え込めないと感じて関節技で一気に極めたんです。
――あそこは手に汗握る名シーンでした。抑え込みが逃げられる可能性があるから折りにいったんですね。
増田:そう。竜澤はその時すでに1人抜いてて消耗が激しかった。七帝戦は真夏の7月にあるし、あの年は名古屋での開催でしたから、とにかく暑かった。
そのなかで1人目相手に時間いっぱい戦って何度も逃げられながらようやく抑え込んだ。もうそこで体力が限界だった。2人目の竜澤は途中で失神しそうなくらい疲れ果てていた。それで相手の腕を縛らずに一気に腕がらみで折ったんです。
――七帝戦では練習でも参ったしないんですか?
増田:練習は、当時は落ちましたけど、関節は基本的に参ったしてた。試合に出られなくなっちゃうから。
でも折れることもあります。つい先日、東京で働いてる後輩から唐突に電話がかかってきて、いま町道場で練習してるところですと言って「隣に、昔、増田さんに練習で腕を折られたと言ってるやつがいます。今でも梅雨時にシクシク痛むと笑ってます」と言われて(笑)。
ああ、たしかにそんなことあったなと思い出した。
――それは困りますね。
増田:当時その選手は某強豪高の選手でね。北大の1年目を乱取りで潰してたから僕が脇固めで肘を折ったんです。そういうことは昔はどこの大学でもあったと思うよ。
当時の出稽古といえば武者修行で、道場破りみたいな時代だったから。僕らが毎回、北海道警への出稽古で潰されたのも、そういうことですよ。僕たちよりさらに前の世代、たとえば岡野功先生や岩釣兼生先生のころ、1960年代から1970年代はもっと凄かったと聞いてます。
たとえば、東京の強豪私大の選手が関西の天理大へ出稽古へ行くには相当な根性が必要だったと岡野先生や岩釣先生が言ってました。
戦前の牛島辰熊先生とか木村政彦先生の時はさらに凄まじかったでしょう。だって木村先生は出稽古で投げられたわけではなくて膝を着いただけなのに、悔しくて眠れなくて、夜、包丁を持って相手を刺しに行って、相手の家の前で思い留まったとか自伝に書いてますからね。
――柔道界は今でもそんなピリピリした感じなんでしょうか。
増田:いやいや。今は違うでしょう。世相自体も変わってるし。僕くらいの時代で下火になりかけて、石井慧あたりの世代が最後ではないですか。とくにコロナ後は大きく変わってきたんではないでしょうか。
――なるほど。でも凄みがなくなるのは寂しい気もします。
増田:寂しい部分もあるけど時代には抗えないですからね。柔術やってる人たちを見てると、入口は楽しく技を覚えて弱い者同士で繰り返しやって、強くなってから強い相手を選んでスパーして頑張る。
その結果、柔術は1ヶ月習えば、前三角絞めとか下からの腕十字とかやれるけど、柔道は2年生になってやっと掛かる感じです。
――柔道だと乱取りのなかで繰り返し技を試してみるっていうことがなかなかできないですもんね。
増田:そうなんです。だってあんなガチガチの乱取りに最初から放り込まれたら攻めなんてできない。いくら研究会で説明聞いても、それを乱取りのなかで使える相手がいないんだから。
そこはやはり柔術のやり方を取り入れないといけないと思う。柔道では初心者がなかなか強くなれない。2年生になって新入生が入ってくるといろいろ試して一気に強くなる。そこまでは乱取りでもみくちゃにされて、退部しないで頑張って、パワーと心肺能力が高まってきて2年生になったところで新しい1年生が入ってきて、そこでようやく攻撃技術を覚えていく。
そのときの強くなるスピード感というのは素晴らしいですよ。ロケットエンジンで打ち上げられるような感じで、傍から見ていても2年生が強くなっていく様は凄いです。そして3年生、4年生と伸びていく。
――なるほど。
増田:ただ、柔道はそこまで辿りつくのに大変だから。パワーが付かないとなかなか乱取りでも動けない。そういう意味で、最初からフィジカルがある人がやるエリートスポーツなんです。フィジカルエリートだけが特権的に強くなっていくエリートスポーツでありパワースポーツ。その基礎パワーを付けたうえで技術競争もあり、頂点を争う。
――たしかに五輪とか見ててもパワーと柔軟性が凄いです。
増田:一方でブラジリアン柔術は、エリオが系統樹の根元のほうにいるから、体力のない者が始めて、強くなっていく技術体系になっています。それで辿り着く強さは五輪柔道と同じなんだから凄いです。
立技中心と寝技中心の差異はあっても同じくらいのレベルにまでいける。僕ら柔道関係者がアルティメット大会でグレイシーが出てきたときに半信半疑だったのは、母数が少なかったからです。
――母数といいますと?
増田:グレイシー一族ですよ。10人とか20人とか、そんな数の人間がやってて頂点が高くなるはずがないと思ったんです。
――なるほど。
増田:柔道はいまは競技人口が減っていますが、昭和時代は数十万人というか、齧ったことがある者を含めれば数百万人の頂点なんです。だから吉田秀彦がホイスに負けるわけがないと笑ってたんです。100万人のトップと、グレイシー一族数十人のトップでは結果は見えてると思ったんです。
牛島辰熊や木村政彦の時代まで遡れば、さらに一桁違う数の頂点です。そこで大会毎にしのぎを削ってトップに立っているのが柔道のチャンピオンでした。木村政彦や山下泰裕がいかに怪物なのかわかると思います。
柔道関係者はそれを練習中にまさに身をもって知ってるから。ボコボコにされて、そのボコボコにした選手をボコボコにする選手層があって、その選手層を玩具にする選手層があって、と遙か高くに屹立する頂点がある。それが柔道。
――グレイシーが強いわけがないと?
増田:そうなんです。それなのにグレイシー一族は、たった数人か数十人で技を体系化させて、エリオが木村政彦とマラカナンであれだけ頑張る試合ができるまでになっていた。
たしかに木村には完敗してますよ。でも相手が数百万人のトップに立ち、講道館100年の数千万人のトップに立つ鬼の木村政彦ですからね。
その木村政彦と2Rまでいってるんです。だから木村が試合後に「日本に来て寝技の指導をしないか」と誘ったというのは本当だと思うんです。
そのあと1990年代になり2000年代になって、アルティメット大会の後にはレスリングや柔道、ボクシングなんかのトップ級と戦ってホイスやヒクソンが勝ってるわけです。エリオ以来さらに進化させた技術で。
これは僕はたち柔道関係者には本当にコペルニクス的転回をしなければならないことだった。ありえないと思った。
――たしかにグレイシーは凄いです。一方で柔道はとにかく乱取りで覚えるって感じで、なかなか初心者のうちに伸びないということですね。
増田:柔道の立技はまさに柔術と同じく実に緻密に技術が組み立てられています。それは柔術の人たちはわからないと思います。内村直也さんという背負い投げの名手がいます。いま大阪産業大学の先生です。中京高校時代から背負いで鳴らし、筑波の体育学群へいって活躍した選手です。この先生がeJudoから出した『背負い投げの入り方57』という動画を見て引っ繰り返るほど僕は驚いた。
だって副題に『すべての局面を投げで解決』とあるんです。試合のあらゆる局面を背負い投げだけで解決するために研究に研究を重ねてる。これは柔術の寝技への傾きと、柔道の投技への傾きが、鏡に合わせたように相似形になっている証明になると思います。
だから柔術と柔道を両方を高いレベルでやった者がこれからトップに立っていく気がしますね。それを木村政彦もエリオ・グレイシーも願っているでしょう。
――なるほど。究極の柔ですね。
増田:はい。それを体現していたのが木村政彦先生なんですよね。本当の意味で立っても寝ても強かった。それは立技と寝技をゴチャゴチャと混ぜて練習してたらできなかったんじゃないかな。高専大会のために寝技専一で技術を練り上げ、全日本選士権のために投技重視の練習をし、その2つを合わせて木村柔道を作っていたから最強たりえた気がします。
――たしかにそうですね。
増田:でも、柔道のなかで、僕たち旧帝大七校がやってる七帝柔道だけは今でもルールが違いますから、それぞれの特質に合わせて理想の柔道に近づけると思います。
だから高校生はぜひ入学して見学に来てほしい。一本勝ちのみ、場外なし、寝技への引き込みが許されて「待て」なし。そして15人の団体戦。そういった土壌で、弱い人や白帯スタートでも強くなれる。入部したときに一番弱かった1年生が4年生になると一番強くなるなんてこともよくあります。
そういう意味で柔術に非常に近い。だからこそ今、七大学を出たあと柔術を始める若いOBが多いんでしょう。頭を使って理論的な研究を重ねた技術が活きる。それが寝技なんです。
旧制高校生や旧帝大の選手が寝技ばかりやるのは、普通にやっていたらトップ層に勝てないからです。研究して練習量にものを言わせて、トップ層に何とか迫ってやろうという柔道なんです。たった4年間しかないからフィジカル的に難しいけども、それでもやってみないとわからない。そのギリギリのところに選手たちの青春がある。ドラマは北大だけではなく七大学すべてにある。そのドラマ同士が年に1度、15人の団体戦で激突する。それが七帝柔道です。
――今回の『七帝柔道記Ⅱ』の最後の方では、日本ブラジリアン柔術連盟の会長の中井祐樹先生も登場しますね。
増田:『七帝柔道記』シリーズは“Ⅳ”まで出そうと思ってます。
“Ⅲ”は中井の代が優勝するまでの話、“Ⅳ”は中井がヒクソンと戦ったバリジャパ1995の話が中心になります。
――“Ⅲ”はいつごろ出せそうですか?
増田:もうすぐ角川書店の文芸誌『小説野性時代』で連載が始まる予定です。連載は1回あたり400字詰原稿用紙100枚で、7カ月で終わりますのでそのすぐ後に単行本化されます。
――それはとても楽しみです! 本日はありがとうございました!
<完>