増田俊也さんに訊く『七帝柔道記Ⅱ』インタビュー第2回「もしかしたらブラジリアン柔術ってやばいんじゃないか」
増田俊也さんに訊く『七帝柔道記Ⅱ』インタビュー第2回「もしかしたらブラジリアン柔術ってやばいんじゃないか」
Special Interview
© TOSHINARI MASUDA
柔術家ならご存知であろう、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の著者・増田俊也さんの最新小説『七帝柔道記Ⅱ立てる我が部ぞ力あり』(角川書店)が今春、待望の発売を迎えた。
寝技中心の高専柔道、その流れを汲んだ七帝柔道(ななていじゅうどう)に身を置く男達の物語で、増田さんが所属した北海道大学柔道部時代をモチーフにした自伝的青春小説である。
寝技といっても、タップをすれば技を解き、笑顔で握手をするような現代の競技柔術からは程遠い。七帝柔道は、15人の団体戦で勝敗は一本のみ。絞めは落ちるまで。関節技は折れるまでと想像を絶する極限の戦いだ。
柔術をやる者であれば、ぜひ読んでおきたい寝技格闘技のルーツともいえる本作品について、発売後の増田さんから話を訊くことができた。全5回にわけてお届けをしたい。
聞き手=伊藤健一
<第1回はコチラ>
――本のなかに雪の描写が多いのも印象的でした。
増田:そうだね。雪のなか毎日毎日、猛吹雪の日もとぼとぼと道場に通ってね。眉毛とか睫毛とか凍るから。ときどき顔に貼りついた雪を手のひらで拭うとジャリジャリ音がした。一般学生が帰省してしまった長期休みに柔道部だけは2部練とか勘弁してほしいと思ってた。
七帝柔道は柔道界のなかでは異質だからね。だからあんなに頑張れたんじゃないかな。寝技ばかりでしょう。だから研究が活きるし、練習量が活きる。まさに柔術と同じ。寝技の練習を通して自分自身の限界を伸ばしていく。
――柔術家が読むと、"斉藤テツ"さんとか思い入れあるメンバーだと思います。寝技って最初は弱くても、がんばれば強くなりますので、柔術家は気持ちがわかってると思います。
増田:そうだね。斉藤テツさんは凄い人でした。今でも尊敬してます。
――普通のスポーツ小説だと主人公や強い選手が格好よく描かれてますが、『七帝柔道記』シリーズではそれ以上に弱い人にスポットが当てられてますね。強い人も弱い人も格好いい。
増田:うん。それは読者みんなに言われます。それにしても最近の七大学の選手たちはいいよね。卒業してからも練習する場所があるから。ブラジリアン柔術のジムで寝技をたっぷりやれる。
柔道引退後に柔術の試合に出てる若いOBも多いです。僕らの頃は引退して社会に出たら、もう寝技をやれる場所がなかったから、羨ましいです。
――たしかに最近は七大学を卒業してから柔術やる方が増えてきました。僕も、某大学のキャプテンの方とスパ—リングをしたことありますが、とても足抜き(パスガ—ド)が上手かったです。
増田:4年間それしかやってないから、それは上手いよ。毎日何時間も何十本も寝技乱取りして同じパターンでぶつかり合ってるんだから。髪から汗のしぶきを飛ばして唸り声あげてぶつかり合ってるから。
――あと亀が異常に強い人もいます。
増田:亀はねえ(笑)。七帝の亀が強い人からは取れないよ。亀の名手は誰も取れない。
だから抜き役は4年間、必死に亀取りを練習するし、分け役は亀を鉄壁にする練習をする。寝技膠着の「待て」がないから亀になったら試合終了までずっと亀ですよ。15人戦で、先鋒から13人目までが試合時間6分、副将と大将が8分ですが、亀の攻防がすごいものになります。亀取りに関しては七帝が世界一進んでるでしょうね。
中井祐樹の師匠にあたる佐々木洋一コーチなんか亀取りだけのマニアックな技術DVD出してます(笑)。
まあ、でも今の七帝大には柔術の技術が流れ込んできていて、上からも下からも攻撃するスタイルをとる選手が増えてるから亀が減ってきてます。いい感じに寝技が進化してますよよ。学生たちの新技を開発したいという意気込みが伝わってくる。
――増田さんは、柔術の経験はありますか?
増田:僕が柔術を初めて体験したのは、梅村寛先生や、白木大輔先生がまだ若いころ、地元の市民体育館の柔道練習会みたいなところで会ったとき。僕がまだ33歳とか34歳のころ。市民体育館で柔道整復師の先生方と柔道の練習をしてる場所に、梅村先生と白木先生が2人で来てた。
僕は梅村先生の10歳くらい歳上で、白木先生の15歳くらい上だからお2人ともまだかなり若いころですよ。白木先生はまだ東邦高校の柔道衣着てましたから。
僕が北大の刺繍入りの古い柔道衣に着替えてアップしてるときに梅村先生が走ってきて「北大ですか。中井先生を知ってますか」って聞いてきたんです。それでお互いに話して「僕、もともとキックやってて今は修斗やってます」って言ってた。それでブラジリアン柔術も練習してると。柔術だとまだ練習相手見つけるのが大変なときだったから、あちこち廻って柔道家相手に練習してたんです。梅村先生も白木先生も柔術は白帯か青帯になったばかりのとき。僕にとって貴重な体験でした。まだ身近で柔術は見れない時代だったから。
――そんな前からお知り合いなんですか。25年くらい前?
増田:そうです。それくらいになります。まだ20世紀。それがブラジリアン柔術の初体験ですよ。
最初に梅村先生とスパーした。梅村先生が寝技に引き込んで僕は上からじっくりいこうとくっついた。そうこうしているうちに梅村先生の前三角に引っかかった。強引に外そうとしたんだけど外れなくて、体重が10kgくらい違ったから最後は持ち上げた。しばらく持ち上げたままの体勢でいたら梅村先生が三角を外した。そして「柔術では持ち上げてもマテにならなんですよ」と言ったんです。それで「ああ、そうか」と考えたんです。
僕は15歳のときに高校の柔道部に入って、そのあと北海道大学で寝技の七帝柔道を4年間みっちりやった。それなのに柔術を始めたばかりの梅村先生に前三に入られたんです。柔道で前三角を使う人なんてベテランですよ。その技を柔術では初心者が身につけてる。そのとき「もしかしたらブラジリアン柔術ってやばいんじゃないか」と少し思ったんです。それが最初の気付きでした。柔術ルールだったら僕が落とされてもおかしくないですからね。
それからときどきその市民体育館の柔道練習会で2人に会って、寝技スパーをやってました。最初に取られたから僕は相当注意してて、それからは取られなかったと思う。
でも僕は柔術との初めての邂逅で「柔道より柔術のほうが寝技の練習体系が進んでいるのではないか」と思いましたよ。白帯を順に育てていく方法が確立してるんじゃないかと。
――そのあとは柔術は?
増田:ずいぶん間が空いて、僕が50歳になる直前に文藝春秋社の雑誌の取材で、しばらく梅村先生のジムに通いました。そのときは既に梅村先生は自分のMMAジムを起ち上げて、柔術のクラスもやっていたから。もちろん黒帯で、バリバリの強豪になってました。
――最初の邂逅から20年近く経って、ということですね。
増田:うん。クラスに出たら黒帯、茶帯、紫、青とたくさんいて、すごく活気があって感動しました。
梅村先生が20年かけて育てた選手たちです。みんな強くてね。僕は古傷がたくさんあって、そんなにガッツリはできなかったけど。首、肩、腰、膝、手首、足首と、あちこち悪かったから。右の大胸筋の肉離れも癖になってて新聞社のデスクワークにも支障があるくらいだった。
「筋力と可動域を戻しながら寝技で少しずつ体をほぐしましょう」と梅村先生に言われて、週1くらいで通ってました。
――怪我だらけですね。
増田:いちばん怖かったのは首です。ほんとは打撃も少し習いたかったけど、梅村先生に「首が危ないから駄目です」と言われて組だけ。
梅村先生が遊びでミットを受けてくれたことはありましたが、打撃スパーは駄目と言われて。それで少しずつ柔術スパーに入っていったんですが、そのたびに帯が上の相手選手から「力が入りすぎです」って言われてて、意味がわからなかった。
「柔術家は7割くらいの力でやってる」と聞いて「えっ? どういうこと?」て思った。柔道の人は、多分わからないと思うよ。
<この項、続く>